「~涙米~」 (絹屋佐平治 丹後ちりめん始祖) ~名言地産地消(8)~

「~涙米~」
(絹屋佐平治 丹後ちりめん始祖)
~名言地産地消(8)~

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「丹後間人に積んじゃる米は どこの百姓の涙米」
江戸時代、宮津藩の積出し港だった間人で歌われていた民謡だという。丹後は耕地出来る場所が少ない上に、宮津藩、峰山藩の領主は江戸幕府の要職を務めていたため、要入りの金が必要で、年貢の取り立ては厳しかったという。

「だんご粉つきゃうれしゅてならぬ 食わぬ米つきゃ腹が立つ」

こんな歌があったほど、百姓は食うに食えずの生活だったという。百姓は年貢を逃れるため、山の中に“隠し田”を作っていった。丹後は全国的に見ても“隠し田”が多いとのこと。たしかに、街の周辺の山に入ってみると、「こんなところに?」と驚く場所に、段々状に開墾された跡を見ることができる。

それでも、積雪期は仕事が出来ないので、百姓は出稼ぎにでるしかなかった。

「行けば百日戻れば百姓 どうせ百の字逃げりゃせぬ」

そんな苦しい生活を頑張っても、年貢が払えないと最後は村全体で逃散(夜逃げ)するしかなかった。絹屋佐平治が、西陣に奉公した享保四年頃から、不作が続いていて“逃散”が後を絶たなかったという。
百姓の“涙米”が絹屋佐平治の「土地繁栄の業(わざ)を始めん」の決心につがったのである。

丹後ちりめんの成功は、百姓の副業としてその生活を大きく改善することになった。いや、この時代、百姓仕事はほとんど税なので、機織りを業とする“機屋”がここに始まったと考えるべきかもしれない。

「久見(久美浜)大野(大宮)の間に、佐野、二箇、五箇、鱒留の村里あり。いずれも絹を織ること国風なり。宮津はいふ及ばず、峰山、岩滝、加悦、藤の森(但東)、弓木(与謝)のことに夥し。」
稚挟考(わかさこう)より引用

百姓にとって、兼業は丹後ちりめん創業期から今にいたっても変わってないのかもしれません。平日は勤めに出て週末は百姓仕事が主流となってしまった。さらには、どうせ職を得るなら都会の方がいいと、広い意味での“逃散”が後を絶つことがない。
また、古くからの百姓の兼業が、特産品、食品加工品などが、他の地域に比べ、あまり育たなかった原因なのかもしれません。

百姓の兼業は休みなしの大変な重労働です。これは、お年寄りの姿を都会と丹後で比較したらその差がはっきりわかります。丹後のお年寄りは、体が歪んでいたり、すり潰れた関節での動作が目につきます。

丹後の百姓にとって、“涙米”の状況は今も変わってないのかもしれません。
ただ、百姓が“百”の字を逃れないのであれば、百歳までお元気でお暮し下さい。(友木)
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注)「江戸時代人づくり風土記 26ふるさとの人と知恵 京都」(農山漁村文化協会)を元に記述いたしました。

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