「~弔いのため帰村する~」 (石工 松助 ~その1~ 狛猫) ~名言地産地消(13)~

「~弔いのため帰村する~」
(石工 松助 ~その1~ 狛猫)
~名言地産地消(13)~

丹後は多くの名士を輩出した。その名言を今丹後に暮らす我々が地産地消していこう。

伝聞によれば、

松助、両親の菩提を弔い石屋を開業する目的で、郷里鱒留村に帰る。文化十二年春(1815年)。

※「石工 松助を語る」田中尚之著 清水印刷刊 より引用しています。
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松助は江戸時代末期、安永八年(1779年)、鱒留村で石工と農業にて生計を立てていた親左衛門のもとに生まれる。
その5~6年後(天明四~五年)丹後に大飢饉があり、その翌年(天明六年 1786年)大洪水が発生します。
その上疫病が発生し、丹後では前代未聞の死者が発生していました。

そんな中松助にとっては、天明六年二月二歳下の妹が亡くなり、同年五月母親が亡くなり、
更に同年九月父親が亡くなる。松助、八歳にて孤児となった。

松助は母親の親元に引き取られるが、元来利発で器用な子であったため京の白川村の石屋に奉公あがることとなりました。
大部屋に住み込み、石工見習いを精進し、二十歳を過ぎ奉公が明けると、仲間二人と大阪で念願の石屋を開業しました。
当時の大阪の石屋は江戸との交流が深く、古い規則にとらわれない石像が松助の作風となった。

そして、松助は丹後に戻ってくる。両親の菩提を弔い石屋を開業する目的である。
三十六歳で石工として脂ののった頃である。文化十二年春(1815年)。
周囲の暖かい協力のもとで、地域の神社、寺院に石像を納めていった。

十五年後の文政十三年(1830年)、金毘羅神社に京から養蚕の神、木島神社が迎えられる。
地元の糸商人や養蚕家の要請があり、養蚕に大敵なのはねずみであるから、狛犬ではなく”狛猫”がよしとし、
天保三年九月(1832年)、”狛猫”造立となった。

この”狛猫”、現在にいたっては日本では他に類のない石像として、すっかり有名になりました。

しかし、この”狛猫”、狛犬の犬を猫を変えただけでなく、不思議な一対の石像です。

通常、狛犬は犬と獅子を合わせた獣神と造立され、
飛び掛かったり(出雲型)や前足を伸ばして威圧する(浪花型)などのポーズをとるが、
この”狛猫”、戦闘的なポーズでもなければ獣神の雰囲気もない。また、動物の猫や猫の置物のようでもない。
3~4頭身で、アニメに出て来る、人間の言葉を話す猫のような感じさえします。
そして、なぜか子供の狛猫もいます。

この一対の石像は、松助が幼い頃に死別した、両親と二歳下の妹ではありませんか。

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子猫に注目してみると、親猫は子猫の頭に前足をおいている。
狛猫のイラストでは子猫を”なでなで”しているように書かれてます。
でもよく見ると、子猫は首をかなりねじって、下を向いています。
子どもをこんな状態にして、親が”なでなで”するとは思えません。

二体の親猫はどちらも参拝者を見ています。
顔をそむけていた子猫を、参拝者の方へ向けさせているという解釈もできますが、
子猫の視線はさらに下で、地面の方です。
また、親猫の右前足は力を入れている様子はなく、軽く頭の上に置いているように見える。

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子猫は力がなくって、頭をダラリとさせたのではないでしょうか。
親猫は子猫の頭を支え、子猫の高熱に驚く、そして声を上げる。(阿形の狛でもある)
松助の妹が死に直面している場面ではないかと思えるのです。

松助は、弔いのため帰村しました。それほどの動機をあたえるのは、
目に焼き付いたかなり悲しい光景だったと思うのです。

ただ、これはあくまでも私の解釈で、確たるものはありません。
「狛猫の謎」といったほうがいいのかも知れません。

”狛猫”を眺めていると、

誰にでも、生まれ育った地に家族はあった。
やがて離れて暮らし、死別していき、一人になり、そしで誰もいなくなる。
でも、故郷の地には、どんな短い期間であっても、家族は存在していて、
その記憶は、かけがえの無いもので、永遠である。

といったことが、弔いのため帰村した松助のメッセージだと思えてならないのです。

皆さんはいかがですか?
どんな風に”駒猫の謎”を解釈されますか?
今度、こんぴらさんをご参拝されましたら、是非”狛猫”をごゆっくりとご鑑賞下さい。(友木)

丹後峰山のこんぴらさん 金比羅神社
http://konpirasan.com/%E7%8B%9B%E7%8C%AB/

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