「~超人的女性~」 (細川ガラシャ ~その1~宮津城) ~名言地産地消(17)~

「~超人的女性~」
(細川ガラシャ ~その1~宮津城)
~名言地産地消(17)~

丹後は多くの名士を輩出した。その名言を今丹後に暮らす我々が地産地消していこう。

イエズス会宣教師 ルイス・フロイスの日本史によれば、宮津城での細川ガラシャについて、

「繊細な才能と天稟の才による知識において超人的であったので、他の誰よりも一段と秀でており、すでに彼女は師匠のそのまた師匠でありうるほどであった。」 
と、記されていた。

※1「宣教師フロイスが記した明智光秀と細川ガラシャ」 守部喜雅著 いのちのことば社 より引用。

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 宮津市 大手川の畔 細川ガラシャ夫人像

天正6年(1578年)、明智光秀の二女(三女との説あり)たまは16歳で盟友細川藤孝の嫡男忠興に嫁いだ。
この時の居城、勝竜寺城は現在の長岡京市にあり、ここで長女”長(ちょう)”と長男忠隆を生んでいる。
天正8年(1580年)、足利義昭につく丹後守護一色氏と対峙するため、宮津11万石の大名として、細川藤孝一門は宮津にやってくる。

フロイスの記録によれば、この頃の細川藤孝は以下の様子であった。
「彼(藤孝)は、すでに老境に入った現在、妻や嫁とともに丹後の国にいて、禅宗に励むことをもって信心の勤めとしていた。
そのため彼は三学をおこなっていたが、良心の呵責を消していくために、禅宗が示している千七百の要点の一つずつを毎日黙想し、その最高の域である内心の平和に到達すことである。」 ※1より引用

嫁である"たま”も毎日のように寺に詣でて禅の修行をしていた。
そして、経典も理解も公案(禅問答)でも僧侶以上であったとのことである。

ただ、フロイスの記録によれば、
「彼女(たま)が会得したことは、彼女をして精神をまったく落ち着かせたり、良心の呵責を消却せしめるほど強くも厳しくもなかった。
それどころか、彼女に生じた躊躇や疑問は後を絶たなかったので、彼女の霊魂は深い疑念と暗闇に堕ちっていた。」※1より引用
とある。後にたまはキリスト教と接触するのですが、禅宗との違いをさかんに質問していたとのことです。

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宮津市 宮津城石垣(復元)

”知識”が超人的であった記されたように、禅以外にも多くの教養を身に着けたと考えられる。
細川藤孝自身、知識人、歌人であり、京にいた知識人を多く招聘していたのこと。
また、たまの侍女清原いと(後にマリア)は、儒学者清原枝賢の娘でもある。
知識を吸収環境は十分にあったと考えられる。

たまにとって、18才の時来た宮津城とは、名門私立 細川大学 宮津キャンパス 教養学部 宗教専攻 なのかもしれません。
そして、あっという間に卒業して教授にまでなってしまいました。

しかし、2人の子供がいるとはいえ、まだ若い女性に宗教学教授は重いように思えます。
細川藤孝が禅ばかり入り込まず、たまに違う世界を学ばせてあげればよかったのにと思えてなりません。

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宮津市 宮津城 敷石と壁石

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、この明智たま役を芦田愛菜さんが演じられます。
芦田愛菜さんは天才子役だけでなく、名門慶応義塾中等部に在籍し、年間180冊近く読書される才媛です。
年齢からいっても、宮津城時代の細川ガラシャ(たま)のはまり役ではないでしょうか。

芦田愛菜さんは、このドラマの出演後、女優業をしばらく休止され、慶応大学医学部への進学を目指して学校に専念されるとのこと。

私は大賛成です。細川ガラシャ(たま)のように若くして人間の心を探求して暗闇に堕ちるより、まずは人間の体を探求してほしいと思います。
その後、心のことも探求して、いい女優さん、いや超人的女優になってほしいと思います。

細川ガラシャ(たま)も今の時代に生きて、スーパーレディとして人生を送ってほしかったです。(友木)

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