「~散りぬべき時~」 (細川ガラシャ ~その4~辞世の句) ~名言地産地消(20)~

「~散りぬべき時~」
(細川ガラシャ ~その4~辞世の句)
~名言地産地消(20)~

丹後は多くの名士を輩出した。その名言を今丹後に暮らす我々が地産地消していこう。

慶長五年(1600年)関ケ原の戦いが始まろうとしていた

徳川家康は奥羽の上杉景勝の挙兵に対して進軍し、忠興も追って馳せ参じた。
石田三成は上杉征伐軍に加わった諸侯の妻子を人質にとる策に出た。先ずは細川家に使者をおくった。

ガラシャはこれを拒み応じず、留守居役の小笠原秀清に命じる
「自ら城内(大坂城)に取こめられたら、殿(忠興)の御心も立て難し。討手を差し向けなば、それを一期の覚悟すべければ、ただちに介錯せよ」

七月十七日未の刻(午後二時頃)、五百の軍勢が細川家を取り囲む、ガラシャは子女、侍女を逃がし、夫忠興と嫡男忠隆への遺書を老女霜に託し、家人に命ずる。
「我、豊臣家の恩顧に叛くは出来ない。敵入るとも戦うのではない。」

ガラシャは静かに最後の支度をする。
小笠原秀清は隣室に入る。「近く参れ」とガラシャは命ずるが、秀清は礼節を守り入らない。
ガラシャは自ら敷居近く身をすすめる。秀清は隣室から長刀を伸ばす。

秀清はその最後を見届けると、邸に火をかけ、切腹する。

※「細川忠興夫人」 行待 廸著 /三丹印刷より引用しています。なお、最後の場面については諸説あります。

参考:ガラシャ最後の地 大阪 細川家跡 https://tabi2deru.com/osaka-eccyuui/

画像の説明

「散りぬべき時を知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」 (細川ガラシャ 辞世の句)

この句は、関ケ原の戦いにおいても、後世においても多くの人の心を打つこととなった。

この句の原点は聖書にあるとのこと。
「天の下のすべての営みに時がある。
 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」
 「聖書」伝道者の書3・1、2)

ガラシャの辞世の句には、「人は”はかない””存在だけど、時を定め給う神に出会い、その愛によって心が満たされている者として、神が定めた死の時を迷いなく迎えることができる」という潔さを見ることが出来るといわれる。

※「宣教師フロイスが記した明智光秀と細川ガラシャ」 守部喜雅著 /いのちのことば社 より

では、なぜそれほどの”潔さ””を持つことができたのでしょうか。その一つとして歴史作家の加来耕三氏は「細川ガラシャのすべて」の中で最後の場面を次のように描いている。

「私は先年、父光秀伏誅のおり、自害を勧められたが、与一郎(忠隆)が幼年であったため、ご成長を見届けて殿(忠興)にお返しし、その後いかように身を処するつもりでおりました。潔く死につこうと思うのです。」

ガラシャの潔さとは、母親として我が子のことを思う気持ちであったいうことが、一番真を得ているのかもしれません。

忠興には側室もいたので、忠隆は本能寺の変を起こした光秀の子孫という理由で、別の子を嫡男にしようとする動きがあるかもしれないのです。そのためには、とにかく生きて目を光らさないといけない。
やがて、関ケ原の戦いが始まろうとする。細川家は家康にさしたる縁があるわけではない。お金をいくら借りた義理があって徳川方に加わったとのが通説である。
自分の死によって、我が子忠隆の立場が家康の時代によくなること願ったのだろう。
忠隆は、光秀が宮津で”松八千年のさなえ”と連歌に詠んだのです。父のためにも、忠隆の代が続いていくよう考えたのかもしれません。

現在、この句の「散りぬるべき時」は転じて、死ぬことではなく、仕事や役職を辞めることやタバコやギャンブルなど悪習を止めることの、いわゆる”年貢の納め時”といった意味にでも使わられる。
辞める時(止める時)は、潔さが肝心ということが、この辞世の句が今も語り継がれている理由なのかもしれません。

この句の力で、今まで仕事や生活を潔くやめて、丹後にIターン、Uターンする人が増えくれればいいのですが。(友木)

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