「~丹波は光秀、丹後は藤孝~」(光秀・藤孝の丹後攻略 ~その1~宮津谷) ~名言地産地消(22)

「~丹波は光秀、丹後は藤孝~」
(光秀・藤孝の丹後攻略 ~その1~ 宮津谷) 
~名言地産地消(22)~

丹後は多くの名士を輩出した。その名言を今丹後に暮らす我々が地産地消していこう。

天正五年(1577年)十月 明智光秀、細川藤孝は安土城に呼ばれる。
「二人で力を合わせて、まず丹波を討ち、丹後を平定してくれたら、丹波は光秀、丹後は藤孝に与える」
と、信長は二人に約束する。

翌年四月 藤孝は光秀と共に丹後の国、宮津谷へ軍勢を進めた。

※「丹後の国鶏り物語」中江忠弘著/石川特殊特急製本 より引用しています。

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宮津谷 (旧大江山スキー場付近より)

NHK大河ドラマ「麒麟が来る」は佳境に入り、丹波攻略の章となった。
このドラマは光秀の物語なので、丹後攻略話の話はあまり描かれないかもしれません。
光秀・藤孝の時代で丹後にどんなドラマがあったのか、そして丹後に麒麟は来たのか、ドラマにコラボして盛り上がっていきたいと思います。

この時代、丹後の国は足利氏の一族である一色一族によって治められていました。
NHK大河ドラマ「麒麟が来る」でも、奈良の寺にいる将軍義昭を警護する近衆として一色義道がチラッと出ていました。名前が画面に出ていたので今後伏線だったかもしれません。

この一色義道、信長から丹後の守護を安堵されたものの、比叡山焼き討ちで逃げてきた僧をかくまい、一色を頼って集まってきた足利残党の強者を家来とした。
信長は義道に忠告したが、義道は聞き入る様子はなかった。信長は義道の態度に腹を立て、光秀・藤孝への丹後攻略の指示となった。

一色一族は、現在の久美浜から舞鶴にかけ、小山や谷が複雑に入り組んだ地形に八十五の城・砦を築いていた。丹後全体は要塞のような状態であった。
義道にとって、光秀・藤孝は足利幕府に仕える同僚であったが、幕府を見限り要領よく立ち回る二人は決して許せることができなかった。
この戦は単なる地方小競り合いではなく、NHK大河ドラマ「麒麟が来る」でも描かれた、足利幕府滅亡を巡るドロドロとした人間模様の最後の遺恨戦でもあった。

宮津谷は大江との境にある普甲峠から宮津湾にかけての谷を言う、一色一族の拠点は弓木城(岩滝)、八田城(舞鶴 八雲付近)にあり、宮津谷の東西の山は天然の城壁であった。
光秀・藤孝の大軍は普甲峠から山城を急襲し、宮津谷に東の八幡山(丹鉄 宮村駅東)に陣を置いた。
知らせを聞いた義道は、近隣の諸将とともに八幡山を包囲した。
戦いが始まるが、どちらにも勝勢はなく、やがて雪が降りこれを不利とみた光秀・藤孝は丹波園部城まで退却した。
丹後攻略の初戦は、光秀・藤孝の利はなく、撤退で終わった。

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八幡山 (丹鉄 宮村駅より)

この宮津谷、現在では宮津以北を訪れる方なら、京都縦貫自動車道の宮津天橋立ICで真正面に見えてきます。
まだ高速が宮津までのころは、ここで降りるときは目の前に巨大な壁が存在するような感じがしてました。

住民悲願の長いトンネル(地蔵トンネル)2011年が開通するのですが、このトンネルを喜んだのは”光秀・藤孝”だったのかも知れません。
この長いトンネルを通れば、敵の本拠地、岩滝の弓の木城はすぐ前で撤退せずに、一気に落とせたかもしれません。
”光秀・藤孝”以来、436年にわたる悲願のトンネルだったのです。(友木)

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宮津天橋立IC

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