「~丹波三戸野の細川ガラシャ~」 (光秀の丹波生存説 ~その2~ 京丹波 船井)  ~名言地産地消(28)~

「~丹波三戸野の細川ガラシャ~」
(光秀の丹波生存説 ~その2~ 京丹波 船井) 
~名言地産地消(28)~

丹後は多くの名士を輩出した。その名言を今丹後に暮らす我々が地産地消していこう。

細川家に嫁いだ光秀の娘たま、本能寺の変後に山奥で幽閉となるのですが、その場所は丹後の味土野ではなく丹波の三戸野ではないかという論争があります。丹後でも丹波でもどうせ山奥であろうと、あまり注目を浴びなかったのですが、光秀が丹波にて生きていたということであれば、この場所は大きな意味を持ってきます。

この論争について、丹後郷土資料館がまとめられてます。まずはご一読ください。
 ([[丹後郷土資料館だより 第9号 2020.3.27>www.kyoto-be.ne.jp/tango-m/cms/?action=common_download_main&upload;_id=2030 (kyoto-be.ne.jp)]] 

画像の説明

この丹波三戸野なる場所、園部の北西二里ほど船井郡水戸村でないかとされている。司馬遼太郎のガラシャを描いた小説「胡桃に酒」では、丹波船井郡水戸野峠の山中の山伏寺があったと書かれている。

また、丹波船井郡は小畠一族の領地であることでも注目される。小畠氏の名はNHK大河ドラマ「麒麟がくる」でも出てくる。菊丸に丹波攻略について誰に話をしたらよいか聞いたところ、小畠氏がいいと答える。後日、光秀はいろは太夫を介して丹波にいる前関白の近衛前久に会う。

光秀 「小畠永明様に合わせて下さい。」

前久 「合わせるが、小畠はこういうであろう、一にいくさ、二にいくさ、まずはいくさに勝ってからじゃ」

だが、小畠永明は丹波攻略の最大の協力者となった。光秀が石山本願寺攻めや荒木村重の変で丹波を離れているときも、光秀の代理として丹波攻略を進めて行き、明智の姓を名乗ることとなります。

小畠永明は天明七年、本能寺の変の三年前に八上城の戦いで亡くなります。嫡男の明智千代丸はまだ13歳であり後の党主を光秀から保証されるも、小畠一族は永明の兄常好が率いることになります。

しかし本能寺の変では、小畠一族は光秀に従軍することなく、翌月には常好の嫡男国明が秀吉の恭順し本領を安堵されます。明智千代丸のその後についてはまったく分かっていない。

細川家の公式の歴史書では、僅かな近衆と侍女をつけて”光秀の茶屋”なる場所に送ったとある。まるで安心して引き渡しましたかのようである。細川勢がたまを守ろうとした様子はない。

細川家も頼りにしていたのは山伏とされている。亀岡北西にある金輪寺の野々口西蔵坊なる山伏が光秀に協力していたという。西蔵坊の管理する山林から小畠左馬進(永明)が材木を京へ運んだ記録がある。

光秀公のまち亀岡/第7回 明智光秀の協力者・野々口西蔵坊

丹波の”明智の茶屋”なる場所であるが、本能寺の変後の時点で管理しているものがいるとすれば明智の姓を名乗った明智(小畠)永明の直系、明智千代丸一派の可能性が高い。

たまの幽閉にあたっては、光秀が丹波でもっと頼りにしていた、山伏西蔵坊一派と明智千代丸一派が動いていた可能性が高いといえます。光秀が亡くなったのであれば、これらの一派も小畠国明にならって秀吉に恭順していたはずです。光秀が生きていて、もっと信頼のおけるこれら一派を使って、たまを丹波に受け入れ、そして守ったのではないでしょうか。

本件に限らず、光秀が丹波で生存していたと見方を変えれば、多くの史料も見方をかえるであろうし、また新たな資料の発見があるかもしれません。

たま、細川ガラシャの歴史が変われば、光秀の歴史が変わっても不思議ではありません。(友木)

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