「監督なんかやっちゃいかんよ」 (野村克也メモリアル ~その1~ 母ちゃん)  ~名言地産地消(30)~

「監督なんかやっちゃいかんよ」
(野村克也メモリアル ~その1~ 母ちゃん) 
~名言地産地消(30)~

丹後は多くの名士を輩出した。その名言を今丹後に暮らす我々が地産地消していこう。

野村克也ベースボールギャラリー 特別展 ~開催中~

期間:2021年3月27日(土)~5月9日(日)

場所:アミティ丹後  (京都府京丹後市網野町)
丹後は多くの名士を輩出した。その名言を今丹後に暮らす我々が地産地消していこう。

野村克也ベースボールギャラリー 特別展 ~開催中~

期間:2021年3月27日(土)~5月9日(日)

場所:アミティ丹後  (京都府京丹後市網野町)

野村克也ベースボールギャラリー

南海魂/あゝ栄光の南海ホークス(ロックver.)
※南海魂の歌手は、京丹後出身の東 蓮(azuma ren)さんです。

野村克也氏、小学校3年の出来事

「母ちゃんが退院する日が、俺には待ち遠しくてたまらなかった。母ちゃんの乗った汽車が着く2時間くらい前には、駅に行っていましたよ。田んぼの中にぽつんとたたずむ田舎の駅には、1日4本くらいしか汽車が通りません。そばを流れる小さな川に入り、魚を追いかけながら、汽車が来るのを待ちました。

ボーっと汽笛が鳴り、「あ、来た来た!」と慌てて川から上がって、駅に走りました。改札口から身を乗り出してみていると、ちょうど左斜め前のデッキから、母ちゃんがどこかのおばさんに体を抱えられながら降りてきました。

「母ちゃん!」

にっこり微笑んでくれた母ちゃんの顔は、幽霊みたいに真っ白でした。まだ病気が治りきっていなかったのでしょう。

近所のおじさんがリヤカーに母ちゃんを乗せ、家まで引いてくれるのを、俺も一緒になって引いて帰りましたね。涙が出そうになって、時々視界がかすんできました。」

「野村克也からの手紙」 野村克也著/ベースボールマガジン社より引用。 ※実際の手紙でなく、手紙形式の随想録です。

画像の説明

母親ふみさんと野村克也氏 (三冠王受賞後 網野にて) ※ 野村克也ベースボールギャラリー 特別展にて展示

野村克也氏は、食料品店を営む父親と看護師の資格を持ち府立病院で助産婦をしていた母親の二男として生まれる。克也少年3歳の時父親が戦死し、母親が女手一つで食品店を切り盛りし、二人の幼子を育てることになった。しかし、母親は克也少年小学2年のとき子宮癌、小学3年のとき直腸癌の2度の大病で入院することとなった。

幽霊みたいな真っ白い顔で家に戻った母親は、病院から戻ってくると小さなタンスの前に座ったきり、じーっと動かず話もしなかった。克也少年が「どうしたの」と聞いても、「なんでもない」とまた黙り込んでしまう。母親はとても仕事が出来る体ではなく、食料品店は閉店せざるを得なかったのである。

その後、近くに織物工場が出来、工場長のご厚意で糸繰りの内職を得たが親子3人の生活は厳しく、克也少年と兄はアルバイトを励むこととなった。新聞配達、子守り、アイスキャンディー売り、となんでもやっていた。

画像の説明

石山寺にて (家族4人最後の写真) ※ 野村克也ベースボールギャラリー 特別展にて展示  

苦しい生活の中でも、母親は克也少年には厳しかった。母親にとって野球は遊びにしか思えなかったのである。一方兄は真面目で、学業優秀で暇さえあれば机の上で勉強していた。中学3年のとき、克也少年は、母親から「克也、お前は勉強もできひんし、お母ちゃんもこんな体だから、中学を出たら働きに行っておくれ」と言われた。

この時、兄が「自分は大学をあきらめるから、最低高校まで出してやってくれ」と助け船を出してくれた。おかげで高校3年間野球を続けることができた。

後に、野村克也氏は野球で成功し三冠王を取る。この時は「あれだけ反対していた野球で、お前が身を立てるとは考えてもみなかった。」とうれし涙を流した。しかし、その後の野村克也氏が南海ホークスの次期監督候補だと新聞で騒がれたとき、

「監督なんかやっちゃいかんよ。皆さまにご迷惑をかけるだけだから、丁重にお断りするんだよ」

 と、癌が再発し入院していた母親から言われる。母親にとっては野村克也氏はまだ子供で、欠点もわかっている。我が子は組織の頂点に立つ子でないと思えたのである。

その時、野村克也氏は「うん、そうするよ」と答えたが、後に墓参りをしたとき監督になったことを詫びるのである。

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網野駅 (現在京都丹後鉄道) 母親を迎えに行った駅

ずいぶん昔、私が中学生の時、網野中学校の野球部に当時最新のベルトレスの野球のユニホームが野村克也氏から贈られた。まわりの中学校からは「オー!」と羨望の声が上がっていました。ちゃんとしたユニフォームを着ていれば”遊んでいる”と思われないだろうと、中学生の時の記憶が寄贈させたのかもしれません。

後に、野村克也氏は誰もが認める名監督になります。名監督になれたのは、母親の「監督なんかなっちゃいかんよ」の一言があったからなのかもしれません。

「よい仕事をするには、『己を知ること』が大切。己を知らないと何も始まらない。自分はどういう存在なのか、認識することが大事」

と、野村克也氏は言う。自分のことをすべて解っている母親から、「監督なんかなっちゃいかんよ」と言われたおかげで、『己を知ること』を出来たのかもしれません。野球界では名選手が皆名監督になれたわけではありません。母親から一言があったことで三冠王の名声を自分の中で一度リセットできたおかげで、監督としてよい仕事が出来たと思えてならないのです。(友木)

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