「お前、ようなったな」 (野村克也メモリアル ~その2~ 南海ホークス入団)  ~名言地産地消(31)~

「お前、ようなったな」
(野村克也メモリアル ~その2~ 南海ホークス入団) 
~名言地産地消(31)~

丹後は多くの名士を輩出した。その名言を今丹後に暮らす我々が地産地消していこう。

野村克也ベースボールギャラリー 特別展 ~開催中~

期間:2021年3月27日(土)~5月9日(日)

場所:アミティ丹後  (京都府京丹後市網野町)
丹後は多くの名士を輩出した。その名言を今丹後に暮らす我々が地産地消していこう。

野村克也ベースボールギャラリー 特別展 ~開催中~

期間:2021年3月27日(土)~5月9日(日)

場所:アミティ丹後  (京都府京丹後市網野町)

野村克也ベースボールギャラリー

南海魂/あゝ栄光の南海ホークス(ロックver.)
※南海魂の歌手は、京丹後出身の東 蓮(azuma ren)さんです。

野村克也氏は語る、

「高校時代、プロ野球選手を夢見ていた私でしたが、京都の片田舎ではいくらホームランを打っても、スカウトの姿はなし。どうすればいいかと思いあぐんでいたとき、アルバイトで配り歩いていた新聞の片隅に、「南海ホークス新人募集」の文字を見つけました。

野球部の先生に相談すると、「お前なら、ひょっとするとひょっとするぞ」と背中を押してくださいました。後で知ったことですが、先生は各球団宛て「わが校には野村克也という優秀な選手がおります・・・・・」と手紙をしたため、送ってくださいました。」

先生の達筆で心のこもった毛筆の手紙に唯一返事があったの南海ホークスでした。野村克也氏は、先生から大阪まで行く汽車賃を借り、入団テストを受けに行くこととなった。

「野村克也からの手紙」 野村克也著/ベースボールマガジン社より引用。 ※実際の手紙でなく、手紙形式の随想録です。

画像の説明

南海ホークス入団当時の野村克也氏 ※ 野村克也ベースボールギャラリー 特別展にて展示 

入団テストに合格して帰ってくるも、母親は「田舎もんがそんな華やか世界に行っても失敗するだけだから、やめておけ」と反対する。この時も野球部の先生が「せっかくのチャンスだから3年間だけやらせてみましょうよ。それでダメなら、私が責任をもって就職の世話をしますから」と説得をしてくれて、野村克也氏は南海ホークス入団となった。

ただ、入団といっても球団の裏方(ブルペンキャッチャー)として採用で、契約金もなく月給7000円のうち3000円の寮費を払い、母親に1000円仕送りをし、残りで野球用品を自前で揃えていたら、手元にはほとんどお金を残らずいつもボロボロの学生服で過ごしていた。同僚のように遊びになどとても行けず一人寮でひたすら素振りをする毎日であった。

入団1年目は、一軍と同行した試合で9試合出場する機会を得て、11打数無安打0打点であった。その年の秋、球団から解雇を打診される。

「たった1年でクビにされたら、盛大に送り出して故郷に帰れません。このまま南海電車に飛び込みます!」

と必死に食い下がり、なんとか解雇を免れることができた。月賦で背広の上着だけかなんとか買い、ズボンは同僚から古着を譲ってもらい、丹後にプロ野球選手として帰ることができたのである。野村克也氏は人生でもっと必死だったのはこの時だったと回想されている。

※「追悼 野村克也」 サンケイスポーツ特別版より引用。

画像の説明

峰山高校野球部 (前列中央:野球部の先生、前列右から2人目:野村克也氏) ※ 野村克也ベースボールギャラリー 特別展にて展示 

 入団2年目はずっと二軍であった。二軍のウエスタンリーグで打率がリーグ2位であったが、肩が弱かっため一塁手へ転向となった。一塁手ではブルペンキャッチャーの手伝いで一軍に呼ばれることはない。何とか、捕手に復帰するしかないと思い、寮では素振りに加え当時まだ珍しい筋力トレーニングを一人黙々と続けていた。

入団3年目の冬にチャンスが訪れる。捕手に戻れた野村克也氏は一軍のハワイキャンプにブルペンキャッチャーとして呼ばれる。この時レギュラーキャッチャーは肩の故障でリタイヤ。前年優勝したご褒美のハワイキャンプの意味もあって控えの捕手も夜な夜な遊びに出かけていた。当時監督であった親分肌の鶴岡一人氏はそんな選手に怒り狂って、半ばやけくそで「野村!お前行け!」と、親善試合に出場することとなった。そして、このチャンスに結果を残し新人賞を取ることができた。

日本に戻ってからも、オープン戦や公式戦に使ってもらえるようになった。そんな時、監督は球場ですれ違った時、野村克也氏に声を掛けた。

「お前、ようなったな!」

親分肌で人をケチョンケチョンに言う鶴岡監督に初めて認められ褒められた。この一言にどれだけ自信を得たかはかり知れないと野村克也氏は回想する。

画像の説明

ウエスタンリーグ時代の野村克也氏  ※ 野村克也ベースボールギャラリー 特別展にて展示

「愚公移山」という書を野村克也氏はよく書かかれています。昔中国に愚公という老人が家の前に山があるからの不便なため、日々山を崩して運び続けていた、それを知った帝はそのひたむきさを感心して山を移させたという故事で、根気よく努力することの大切さのたとえとなっている。

野村克也氏が毎晩遊びにはいかず、寮で素振りや筋力トレーニングをしていることは寮監など通じて監督まで報告が上がっていたのかしれません。それで監督から見どころあるかも知れないと思われ、解雇も免れハワイキャンプにも行くことが出来たのかもしれません。

そして、監督から「お前、ようなったな!」の一言が、南海ホークスのプロ野球選手になれた、入団できたんだと感じた一瞬だったのかもしれません。

後に野村克也氏が監督になったとき、選手に「お前、ようなったな!」という言葉を自然と声をかけていたいう。人は仕事の結果に対して褒められるより、その努力の過程も含めて褒められると、より自信を深めその努力を続けられるのかもしれません。(友木)

※「愚公移山」の直筆の色紙が特別展に展示されています。

ヤクルトの追悼試合のニュースもご覧ください。

野村克也さんの孫・彩也子さんが始球式「おじいちゃんを思い出してグッときました」 - 野球 - SANSPO.COM(サンスポ)

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