~土地繁栄の業(わざ)を始めん~(絹屋佐平治 丹後ちりめん始祖)~名言地産地消(7)~

~土地繁栄の業(わざ)を始めん~
(絹屋佐平治 丹後ちりめん始祖)
~名言地産地消(7)~

丹後は多くの名士を輩出した。その名言を今丹後に暮らす我々が地産地消していこう。

「絹屋佐平治という者、土地繁栄の業(わざ)を始めんことを思い、多年工夫をこらすといえども得ることなし。これがため寝食を忘るるに至る」
普門台縁記(小西山禅定寺)より

室町時代から江戸時代にかけ、丹後では精好(せいごう)織という、たて糸に練糸、横糸に生糸を使った織物が丹後絹として名産でした。ただ、大衆向きでなく利益が少ないため、製品の付加価値を上げるための工夫が必要となっていました。
そんな工夫を寝食忘れて研究していた絹屋佐平治と織手が、京都の西陣で縮緬という新しい織物が織られていることを知りました。なんとかしてこのちりめんの技法を学ぼうと、十七日間断食祈願をしました。

「絹屋佐平治と申す者、よろしき商売に相成べき品を織り出したき願心によって、小西山
禅定寺観世音へ祈願をこめ、享保四年(1719年)三月十七日より十七の断食祈願をいたし、それより京へ上り西陣へ参り云々」
丹後縮緬初之由来(峰山機方行司所蔵)より

絹屋佐平治38歳にて、西陣糸崎屋に奉公にあがりました。しかし、どうしても絹の糸撚りの技法が解らず、峰山にひとまず戻ってきました。
享保四年(1719年)九月、再度十七日の断食祈願の後、覚悟を決め再び奉公に上がりました。しかし、門外不出の糸撚機の大まかな構造と深夜実物を暗闇で触っただけでした。
峰山に戻って、後は創意工夫しかありませんでした。何度も失敗と工夫を繰り返し、享保五年(1720年)四月についに縮緬織りに成功しました。その縮緬布と手織機は断食祈願した禅定寺に寺宝として残っています。
絹屋佐平治は後に苗字帯刀を許され、“森田治郎兵衛”と名乗ることとなりました。

「享保五年(1720年)四月、絹屋治郎兵衛織方を京都より伝えて織りはじめ、殿より御賞美に預かる。」
峰山旧記より

享保六年、京都の西陣で大火が起こり、織機七千台のうち三千台が消失することとなり、丹後縮緬に注文が殺到することになりました。
縮緬織りは下級武士や農家の副業として広まっていき、また養蚕する農家も増え、さらに足らない繭を東北から仕入れる廻船業の豪商が現れ、織られた反物を京へ運ぶ縮緬飛脚が大江山を頻繁に行き交うこととなりました。まさに、丹後縮緬が“土地繁栄の業(わざ)”となったのです。

絹屋佐平治のように“土地繁栄の業(わざ)”を志して、第二次大戦後の復興期、日本各地で多くの起業家が現れました。復興していく社会のニーズをくみ取って、商品やサービスを提供しようというスタンスです。
そんな企業の中で、より社会のニーズをつかんだ企業は、今や押しも押されぬ大企業となっていきました。大企業となっても“土地繁栄の業(わざ)”の志を多の起業は企業理念しました。そして、この企業理念での企業運営は、国内のみならず、グローバル化で海外進出した国でも高い評価を得ることになったのです。

“土地繁栄の業(わざ)”の志“は、”経験“や”強味“といったことより、もっと大きな成功要因なのかもしれません。

この“丹後人”のサイトでも、“土地繁栄の業(わざ)”の志を持つ人が多く紹介されました。
丹後には300年前に大きな成功事例があったのです。そんな皆さんの志が成功すること祈願いたします。ただし、“断食祈願”はスミマセン。(友木)

注)「江戸時代人づくり風土記 26ふるさとの人と知恵 京都」(農山漁村文化協会)を元にして記述いたしました。

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