「~松八千年~」 (細川ガラシャ ~その2~宮津百韻) ~名言地産地消(18)~

「~松八千年~」
(細川ガラシャ ~その2~宮津百韻)
~名言地産地消(18)~

丹後は多くの名士を輩出した。その名言を今丹後に暮らす我々が地産地消していこう。

天正9年(1581年)4月、ちょうど本能寺の変の1年2ヶ月前、光秀はたま(ガラシャ)のいる宮津を訪れる。
藤孝、忠興の案内で、同行した茶人で堺の豪商の津田宗及(そうぎゅう)、連歌師の里村紹巴(じょうは)とともに、
智恩寺を訪れ、天橋立を遊覧し、連歌の会を催す。”宮津百韻”と呼ばれる。

<宮津百韻>

明智光秀(発句):「うふるてふ松八千年のさなえ哉」 (うふるてふ:植えたばかりの)

細川藤孝(脇句):「夏山うつす水の見なかミ」 (ミ:”み”の読みだか古語で「~ので」の意味)

里村紹巴(第三句):「夕立のあとさりけなき月見へて」

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天橋立 知恩寺

たまを訪ねた光秀には、嫡男の明智光慶と自然丸が同行していたという。
前年に、たまは長男の熊千代(細川忠隆)を生んでおり、長女の長とともに光秀は孫と面会していたはずです。
この年は、苦難の連続であった丹波・丹後の攻略が終わっており、
子や孫に会えた光秀は、その喜びから、この子らが天橋立の松のように永代に続いていってほしいと、連歌の発句に読んだのかもしれません。

ただ、何分この連歌会は本能寺の変の1年2ヶ月前、この「うふるてふ」とは謀反の芽がこの時生まれたのではないかと後に疑われることとなる。
この連歌師の里村紹巴は本能寺の変の直前に、愛宕神社で「ときは今 あめが下なる 五月かな」と光秀が詠んだ連歌の会にも参加している。
里村紹巴は秀吉から後にきびしい詮議を受けることになった。

本能寺の変がある歴史ドラマでは、光秀はこの時期ストイックな人間に描かれるのですが、
宮津で家族とひと時を過ごす、のんびりとした幸せな時間が光秀にあったと私は信じたいです。
NHK大河「麒麟がくる」で光秀のイメージが変わってくれればいいのですが。

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天橋立 松並木
堺の豪商の津田宗及は信長の名代で、宮津の港湾開発が目的だったといわれている。

NHK大河「麒麟がくる」では、信長の海洋通商の興味がよく描かれています。
戦国時代、城は合戦をのため山や丘につくったのですが、
信長は港に城を作り、城下町を作り、楽市楽座で海洋物流を盛んにすることを良しとしていたようです。
安土城はまさにそんな城で、宮津城もそんな意図があったようです。

光秀は後に丹波から山陰へ国替えとなります。
そのうらみが本能寺の変の原因ともされていますが、
もしそうであれば、もう少し我慢して山陰まで勢力が伸ばしていただければ、
丹後は山陰にかけて、もっと”大きな国”になって、港として宮津や間人や久美浜はもっと発展していたかもしれません。

丹後の宮津は堺のような町になってもおかしくなかったのです。

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天橋立 遊覧船と廻旋橋
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天橋立 阿蘇海

光秀が楽しんだ天橋立の遊覧船は大型船になって、その通行のため廻旋橋まであります。
行楽期は家族連れでにぎわい、昔と変わらぬ松並木や阿蘇海の静かな水面を楽しみます。

NHK大河「麒麟がくる」では、なかなか家族と過ごせない中、家族の絆を大切すところも描かれてます。
なかなか家族と過ごせないことは今の世もかわりません。

忙しい中、天橋立に行って家族の絆を強める。そのことは光秀の時代から変わってないようです。
そして、そのことは光秀が連歌で詠んだように、”松八千年”、続いていくに違いありません。(友木)

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