勇猛なる影武者(光秀・藤孝丹後攻略 ~その5~善王寺 平岡城、長岡 長尾城)~名言地産地消25~

「~勇猛なる影武者~」
(光秀・藤孝の丹後攻略~その5~善王寺 平岡城、長岡 長尾城) 
~名言地産地消(25)~

丹後は多くの名士を輩出した。その名言を今丹後に暮らす我々が地産地消していこう。

「一色義俊、討たれる、、、」の密書を携えた早打ちが奥三郡へ走った。翌日、叔父の吉原山城主一色義清が弓木城に入り、一色五郎義俊と名乗ることとした。義俊は先の由良川中山城での戦いで細川勢を小隊で蹴散らした猛将である。「義俊はまだ生きている」との威を借りる策である。

一方細川勢は、義俊誘殺の期に乗じて弓木城を一気に落とす策を、稲富治介の百発百中の鉄砲によって阻まれたため、海上から経ヶ岬を回り上陸して進軍し、弓木城へと北から押し寄せる策を採った。

 ※「丹後の国盗り物語」中江忠弘著/石川特殊特急出版社 及び 「権現山物語」峰山町文化財保護研究会 より引用

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浅茂川 浜辺

細川勢は三手に分かれて上陸作戦を実行していった。目指すは奥三郡の拠点、吉原山城(峰山)である。
一番手松井康之は湊宮の浜(久美浜)に着船するも、日村岳砦から攻撃に苦戦を強いられていた。
二番手本陣の細川興元は浅茂川に上陸し、疾風のように下岡を落とし、島村、縁城寺村、八田を取り、和田野に迫っていた。

三番手有吉将監は三津浜に上陸すると徳光を落とし、岩木ノ城に押し寄せた。すると有吉勢の横手から三手に分かれて小隊が突入してきた。先頭の者は、「我こそは一色五郎義俊!!」と名乗り、大身の槍をしごいた。皆義俊と同じ鎧兜である。思いもよらぬ義俊の出現に有吉勢は肝を冷やし、この時ばかりに打って出た城兵にとり囲まれ、海岸まで退却せざるを得なかった。

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三津浜

浅茂川に上がった本陣興元勢は順調に進軍し荒山に陣を置いた、三津に上がった有吉勢はその後軍勢を立て直し岩木、黒部、成願寺を落とし興元勢に合流し名木(内記)に陣を置いた。しかし熊野郡へ上がった松井勢はまだ比治山峠を超えることは出来なかった。

敵の本陣、吉原山城を落とすには、目前の平岡城(善王寺)、長尾城(長岡)を落とさねばならなかった。落とさなければ吉原山城に寄せる時はさみ討ちに会うことになる。細川勢は大将興元ら三千六百を平岡城に、重臣沢田出羽守と初陣の嫡男仙太郎ら二千を長尾城に向けることとなった。

平岡城では、土俵で川を堰止め守りを固める。細川勢は付近の竹を切り束ね筏とし川を渡る。それを待ち構えていた城兵は鉄砲を撃ちかけ火矢を飛ばし筏を焼いたため、寄せ手の大半は川に落ちてしまった。さらに小隊が城から飛び出し細川の横をつくと吉原山城から援軍が後方から駆け付けた。猛将大谷左ェ門である。八尺近い棒を振り回しなぎ倒していく。これを見た城兵が一斉に出てきたため、細川勢は浮足立ち荒山の本陣まで退却していった。

長尾城では、平岡城激戦の様子から策を変え、夜襲をかけようと時を待っていた。すると突然後方から、「我こそは、一色五郎義俊!見参!」と声がし襲いかかってくる。一隊の中には猛将大谷左ェ門が八尺の棒を振りかざしている。さらに城兵が討って出てきたため、細川勢は本陣まで退却していった。

細川勢は、方々で神出鬼没に表れる、一色五郎義俊を名乗る”勇猛なる影武者”にやられてしまった。

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平岡城跡 大宮町 善王寺 公民館付近

戦国時代、どの領主も命の危険があり、影武者がいるのは当たり前だったという。

特に真田幸村(信繁)は有名で、合戦では「我こそは真田信繁なり!!」と名乗る武将が次々と出てきたという。大阪夏の陣ではいくつもの信繁の首が届けられたという。あの印象的な六文銭と鹿の角の兜を見れば、「本人に違いない!」と誰も思ってしまうのかもしれません。

明智光秀にも影武者がいた説があります。山崎の合戦で敗れ退却中に討たれたのは実は影武者で、功を焦った秀吉が討ち取ったと情報を操作した、しかに光秀は生きていて、後に天海僧正として現れ、徳川幕府の重要な役割をになったとの説があります。

NHK大河ドラマ「麒麟が来る」でも、家康とつなぐ菊丸というオリジナルキャラクター設定があり、秀吉が情報操作するシーンも描かれています。もしやと期待をしてしまいますが、さて結末はどう描かれるのでしょうか。

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長岡城跡 峰山町 長岡 小学校付近

アメリカでは親と同じ名前にして、”Jr”をつけて名乗る人もいます。日本では一般にはいませんが、屋号にて先人の名を使う企業や店が多くあります。

愛知県発祥で、ステーキで有名な「あさくま」というレストランチェーンがあります。この店名の由来は仕出し屋を営んでいた創業者の近藤誠司さんが熊のようなごつい体で、朝早くから仕入れに出掛けたていため、”朝掛けの熊さん”と呼ばれていたからだとのです。このお店は、料理もサービスも手を抜かず評判を得て、厳しい外食業界を生き残っています。従業員の皆さんは”朝掛けの熊さん”の影武者という精神があるのかもしれません。

丹後にも創業者の屋号を掲げる企業や店は多くあります。さらなるご繁栄をお祈り申し上げます。(友木)

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