「キャチャーは”補”手である」 (野村克也メモリアル~その4~野村再生工場)  ~名言地産地消(33)~

「キャチャーは”補”手である」
(野村克也メモリアル~その4~野村再生工場) 
~名言地産地消(33)~

丹後は多くの名士を輩出した。その名言を今丹後に暮らす我々が地産地消していこう。

野村克也ベースボールギャラリー 特別展 ~開催中~

期間:2021年3月27日(土)~5月9日(日)

場所:アミティ丹後  (京都府京丹後市網野町)
丹後は多くの名士を輩出した。その名言を今丹後に暮らす我々が地産地消していこう。

野村克也ベースボールギャラリー 特別展 ~開催中~

期間:2021年3月27日(土)~5月9日(日)

場所:アミティ丹後  (京都府京丹後市網野町)

野村克也ベースボールギャラリー

南海魂/あゝ栄光の南海ホークス(ロックver.)
※南海魂の歌手は、京丹後出身の東 蓮(azuma ren)さんです。

野村克也氏は語る、

「キャッチャーは「球を捕る人」という意味で、「捕手」と書く。

私はキャチャーは「捕手」より「”補”手」だと思うのだ。

ピッチャーを支え、助け、ピッチャーに足りないところを補ってやる。

なぜ、キャッチャーが「女房役」と呼ばれるかといえば、目配り、気配り、思いやりにあふれ、

亭主関白なピッチャーを常に立てなければいけないからだ。」

「野村克也からの手紙」 野村克也著/ベースボールマガジン社より引用。

 ※実際の手紙でなく、手紙形式の随想録です。

画像の説明

南海ホークスユニフォーム(復刻)

バッターとしてだけでなく、捕手としても認められた野村克也氏は南海ホークスの選手兼任監督となる。

そのずば抜けた野球眼と”補う”気持ちにあふれた選手とのコミュニケーションによって、

獲得した成績の振るわない選手を活躍に導いていった。

それは後に、他球団で監督を引き受けた時も変わらず、いつしか”野村再生工場”と呼ばれるようになった。

東映フライヤーズから未勝利で敗戦処理役だった江本選手がやってきた。

ドラフト外入団であったが長身でいいカーブを投げるる頭のいい選手であった。

野村克也氏は会うなり、「俺が受ければお前は10勝できる、10勝できればお前はエースだ」とエース番号のユニホームを渡す。

江本選手はこれには驚いて、意気を感じたという。

しかし、江本選手はあまのじゃくでわがまま放題であった。

まずはそこを気づかせることから始まった。

長髪禁止のところ髪を伸ばしたいたので、「お前だけ特別許可を出す。女の子のように伸ばしてみろ」という。

あまのじゃくと気づいたのか翌日にはバッサリと紙を切ってきた。

江本選手は、野村克也氏から相手を研究するクセを叩き込まれる。

「短所がない場合、長所を探せ。見えない短所は長所のすぐそばにある。」と言われる。

長所へ投げる球筋から曲がりはじめるカーブを投げてタイミングを外せば、相手を打ち取れるのである。

そして、江本選手の得意球カーブが生きてくる。

頭脳的な投球術を自らの工夫でものにしていった江本選手は移籍1年目で16勝をあげる。

その後もコンスタントに10勝以上あげ、南海ホークスのエースとなっていった。

画像の説明

ストッパーとして活躍した江夏豊選手

阪神タイガースからエースの江夏選手がトレードされてきた。 

典型的なピッチャー型で性格で、「なんで俺がこんなチームに!」という思いを隠そうとしなかった。

また荒れた生活していて家にもろくに帰らなかった。

心配した家族から「監督と同じマンションを買うから監視してくれ」と頼まれる。

野村克也氏は江夏選手を車で送り迎えするはめになる。

すると、江夏選手は帰宅後、野村克也氏の部屋を毎晩訪れるようになった。野球談議である。

江夏選手も野村克也氏以上に野球が好きで、豊富な知識を持っていた。二人の野球談議は夜明けまでつづいていた。

「ストライク取り方はいくつある?」、、、「見逃し、ファウル、空振りや、そのどれを選ぶかだけや!」

「一番処しやすいバッターは?」、、、「選球眼の悪いバッター。ボール球で誘えばいい!」

などと、キャッチャー目線のバッターの駆け引きのイロハを知ることとなった。

江夏選手は南海に来た時、左腕はボロボロであった。

血行障害で50球も全力で投げたら子供の握力ほどになる。

リリーフに回そうとしたが、当時リリーフのポジションが確立してなく、首を縦に振ってもらえなかった。一か月ほど説得はつづく。

「リリーフの分野で革命を起こしてみんか!」といったところ、この”革命”という言葉に反応してリリーフの道へ進むこととなった。

その後、江夏選手のマウンド度胸とバッターとの駆け引きで抑えていくリリーフは、まさに革命となっていった。

特に広島カープ移籍後、近鉄との日本シリーズで、9回裏ノ-アウト満塁でのリリーフは「江夏の21球」として、語り伝えられている。

  

画像の説明

穏やかな表情でキャッチボールする野村克也氏

野村克也氏は投手の個別の問題だけでなく、投手全般に補う点があるという。

投手は「打てるもんなら打ってみろ」というプラス思考で投げないとやってられないである。

「打たれらどうしよう?」など思いだすとフォアボールや打ちごろの力のない球になってしまうのである。

「打たれらどうしよう?」といったマイナス思考は捕手の役割だと語る。

投手のプラス思考と捕手のマイナス思考があるからバッテリー(電池)と呼ぶんだと説く。

※野球のバッテリーの語源は、砲手(大砲を討つ兵隊)からきていて、その球を打つバットはバトル(戦い)からきているのが通説です。

それでも、まだ若い投手の場合どうしても開き直ることが出来ない。

そんなときは「ストライクさえ放れば、あとは俺がなんとかする」とよく声を掛けたという。

投手の現状を補うだけではなく、その目標となる姿に対して補っていたのでした。

目標に対して補ってもらえるなら投手はただそこに向かうだけなのです。

野村克也氏が”野村再生工場”として実践したことは、本来の”コーチング”なんです。

コーチといえば指導者のイメージが強いのですが、専門知識や経験からアドバイスすることは、実はティーチング、コンサルティングなんです。

本来の”コーチング”とは、

現状(現在地)とゴール(目的地・望ましい状態・欲しい結果)を明確にし、その間にある差異(GAP)を埋める行動を補佐をすることをいいます。

コーチングは専門的アドバイスでなく選手との”会話”を通じて、現状の課題を気づかせ、効果的なゴールを提案し、それに納得した選手のやる気を引き出し、自ら行動することを補佐することとされます。

テニスの大坂なおみ選手が、名コーチとの会話によってメジャー大会で優勝するような選手となりました。

現在ではスポーツ全体でコーチングはあたり前になっていますが、

野村監督の時代は、かつての大投手がピッチングコーチとなって、コーチの持っている技能や知識の指導でした。

しかし、誰もが大投手になれるわけではありません。

また大投手であってもいつまでも大投手でいれるわけではありません。

誰もが大投手を目指すのではなく、選手の現状と達成可能なゴールを明らかにして、

そのゴールにあった使い方をすることが重要だと気づいたのかもしれません。

また、コーチングは接客を伴う業種、職種で今注目され、活用され始めています。

大手チェーンでは接客をマニュアル化しています。

しかし具体的に言ってくる顧客に対応出来ても、要求が漠然としている顧客とか、わがままな顧客には十分応対しきれません。

会話によって顧客の現状とゴールを会話によって明確にして、それをサポートする接客はワンランク上の接客なんです。

接客がいいところは生き残っていけます。

コーチング力を上げるには会話のスキルを上げる必要がありますが、一番大事なのは人を”補う”という気持ちです。

丹後は田舎で、皆が助け合って生きていています。

野村克也氏も家庭事情から廻りに助けてもらって育った。

高校の野球部の先生は「父親代わりをする」とまで言ってもらった。

そんな経験が「キャチャーは”補”手である」という発言につながったと思うのです。

人を”補う”という気持ちが残っていれば、丹後もまだまだやっていけると思うのです。(友木)

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