~ 弱きを知り 弱者として歩め ~  (野村克也 弱者の流儀 ~その1~ 人は皆、弱き者) ~名言地産地消(35)~

~ 弱きを知り 弱者として歩め ~ 

(野村克也 弱者の流儀 ~その1~ 人は皆、弱き者) 

~名言地産地消(35)~

丹後は多くの名士を輩出した。その名言を今丹後に暮らす我々が地産地消していこう。

野村克也ベースボールギャラリー 特別展 ~再開しています~
場所:アミティ丹後  (京都府京丹後市網野町)

野村克也ベースボールギャラリー

南海ホークス応援歌
南海魂/あゝ栄光の南海ホークス(ロックver.)
※南海魂の歌手は、京丹後市出身の東 蓮(azuma ren)さんです。

野村克也氏は語る

「担任の先生に、私は随分と可愛がられた。小学校四年生の頃の思い出である。この頃、新聞配達のアルバイトをしていた私は、学校の始業時間ギリギリに学校に着いていた。アルバイト料はもちろん自分の懐に入れず、お金の工面で苦労していた母親に渡した。

だからだろうね、担任の女性の先生はとても優しくしてくれた、あまり可愛がるので、ほかの男子生徒から焼きもちを焼かれよくいじめられた。毎朝、正門前で四、五人の不良グループが私を待っていた。私を見つけると、私の鞄を投げたり、教科書をひっくり返したりといじめられていた。この不良グループのリーダーは同級生だったが、四歳年上だった。

ある日、体操の時間に、担任の先生はみんなを浜辺に連れ行って、いきなり突然、大相撲大会となった。突然、四つ年上だった子は勝ち残る。私も勝ち残った。いよいよ決勝戦となった。

決勝戦、勝敗のゆくえだが、残念ながら私は敗れた。体力差が如何ともしがたかった。私が残念がっていると、担任の先生はいじめっ子リーダーに向かって、「じゃ、今度、私とやろう」と。私たちがヤイノヤイノとはしゃぎまわっている中で、担任の先生はその優勝した子を投げ飛ばしたのである。

見ていて痛快なほにど投げ飛ばした。みんな大笑い。投げ飛ばされた子はそれでおとなしくなり、私へのいじめもなくなった。私の担任のきれいな女性は、私にとって自慢の思い出になった。

私はこうした思い出たちに育てられ、鍛えられて生きていた。私の人生は弱者の人生なのである。」

「野村克也、明智光秀を語る」 野村克也著/プレジデント社 より引用しています。

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野村克也氏は晩年、人生論の集大成として「弱者の流儀」(ポプラ社 2017年出版 )という書籍を出される。野村克也は丹後人として大変な成功者なのですが、成功の記憶を自慢げに語るのでなく、丹後の田舎から出てきて抜きんでた才能もない弱者であった、でも「その弱き知り、弱者として歩んできた」からこそ成功した」と語るのである。

その書籍の冒頭で、本書で伝えたいこととして以下を語る

「人は皆、弱者である。

これが私の持論だ。この世に初めから、完璧な人間などいない。一流と呼ばれる人間なんて存在しない。

世の中には、いわゆる「天才」と呼ばれる「強者」もいるが、その者たちも、たゆまぬ努力を経て「強者」になったはずだ。最初は誰しもが「弱者」だ。傍目は才能だけで成功しているように見えるかもしれないが、「才能」だけで一流になれるほど、どんな「プロフェショナル」の世界も甘くない。プロ野球の世界のなんて、その最たる場だろう。

「弱者の流儀 野村克也31の考え」 野村克也著/ポプラ社 より引用しています。

才能といえば、「学校で、私が一番出来ていた、いつも上位にいた」といった気づきに端を発することが多い。野村克也氏はこういったことこと否定しているのではない、人は何かしらの可能性を持っている、でも才能を生かすためには、強者(才能がある人)という意識ではなく、弱者(才能がたいしてない人)という意識を持ちなさいと、説いているのです。

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小学校卒業写真 (野村克也氏 三列目 左から5人目)  ※野村克也ベースボールギャラリーで展示

また、弱者が結果を出してきて、強者に思い始めるときこそ危ない、油断大敵であると説く。

1979年、近鉄対広島の日本シリーズ第7戦9回裏、ノ-アウト満塁、いわゆる「江夏の21球」のドラマである。この時ネット裏にいた野村克也氏は近鉄の西本監督が「ニヤッ」と笑ったのを見た。それはもう勝ったという油断であったのであろう。結果は江夏に抑えられ、近鉄は日本一になれなかった。

野村克也氏は、これを教訓にされたのか、終生「弱者」の意識を持たれていた。冒頭に紹介した、「野村克也、明智光秀を語る」 野村克也著/プレジデント社 は、NHK大河ドラマ「麒麟が来る」の放送直前2019年12月に出版されています。ご逝去の2ヶ月ほど前なのです。

この「野村克也、明智光秀を語る」の著書の中で、光秀も二十代、三十代の頃苦労して弱者の生き方を学んだはずだ、しかし丹波攻めが終わり、丹波一国をあずかる大名になったあたりから変わり始めたと指摘する。そして、本能寺の変後も、安土城に籠り朝廷対応は努力するが、大事な武将を味方につける努力を必死でやっていない。織田家の中で、必死に這い上がってきた時とは別人になっていると指摘する。

光秀を討った秀吉も、百姓出の弱者として織田家中を這い上がってきたのであるが、関白になったあたりから傲慢な権力者に変容していく。

野村克也氏は、光秀だったから、秀吉だったから、また西本監督だっからということではなく、誰にでも起こりうる弱者であること忘れた悲劇だという。そんな悲劇をプロ野球でいっぱいみてきたからこそ、「人は皆弱者であり、その弱きを知って、弱者として人生を歩んでいけ」と説くのである。

画像の説明

野村克也氏の著作の中では、ふるさと丹後の思い出がよく出てきます。「 自分は弱者」であるという意識を持ち続けるためにも、丹後のことをよく思い出されてたのかもしれません。

冒頭の思い出話で出てきた小学校の担任である、きれいな女性の先生について、別の著作の中では「この先生が結婚すると聞いて悲しい気持ちになった」と告白している。野村克也少年の初恋の相手だったのである。「弱きを知って、弱者として生きていく」ことも、野村克也氏にとっては、甘酸っぱい、心地いいものだったのかも知れません。(友木)

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