「打ち上げられた貝」 (松本重太郎~その1~ 間人出村) ~名言地産地消(38)~

「打ち上げられた貝」
(松本重太郎~その1~ 間人出村)
~名言地産地消(38)~

丹後は多くの名士を輩出した。その名言を今丹後に暮らす我々が地産地消していこう。

松本重太郎氏:

十歳にして赤貧から志を持って家を出。銀行、鉄道、紡績、ビール会社など次々と創業し、”西の渋沢栄一”と言われ関西実業界の帝王として名をはせる。(「気張る男」 城山三郎著/文藝春秋 表紙より)。京丹後市丹後町間人出身。

松本重太郎氏、十歳にて間人出村の時

「間人ではときどき襲う大波のため、稚貝の群が浜の岩場に打ち上げられるが、そのまま動かず、海に戻れず、日干しになって大量に死んでしまう。

嬰児か幼児のまま、逃げられず集団死してしまった貝たち。浜の砂と見まがうほどだが、よくよく見れば、貝の形をとどめている。汐の加減や浜の形、大波の寄せ具合いなどから、間人の浜でしか見られぬ「砂」であった。」

重太郎少年は母親に端布で小さな袋を作ってもらい、間人の浜の砂を入れお守りの代わりにした。

「この先、弱気になったとき、間人から出なければ、干からびて「砂」になってしまっていたはずと、自分自身を鞭打つためのお守りであった。」

  

「気張る男」 城山三郎著/文藝春秋 より引用しています。

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松本重太郎、旧姓松岡、幼名亀蔵。江戸時代末期、天保15年現在の京丹後市間人の農家の次男に生まれる。

渋沢栄一は天保11年生まれで、NHK大河ドラマ「蒼天を衝け」とほぼ同じ時間で松本重太郎の物語も進む。

日本海に面した港町、間人の土地は狭く農家の二男の食い扶持はない。

重太郎少年は幼いころから、家を継ぐもの以外は村を出なくてはならないことを父親から言い聴かされてきた。

また、天保の時代、大飢饉に始まり、江戸幕府は財政破綻してしまう。

さらに苦し紛れの貨幣改鋳で貨幣流通を大量に増やしたため、大インフレが起きて、間人であろうが他所の土地であろうが、誰もが食べていくのが大変な時代であった。

重太郎少年が浜で見た、打ち上げられ貝の死骸はまさに差し迫った現実であった。

後に水野忠邦が出てきて改革を進めるが失脚し、幕府は威信を失って時代は混沌としてくる。

そして黒船がやってきた。幕府は独断で和親条約を結び、尊王攘夷の火をつけてしまう。

そんな時代十歳の重太郎少年は間人を出て、丁稚奉公のため京へ向かう。

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重太郎少年は、出村にあたって”志”を持っていたと作者は語る。

これには、京へ行く途中、女衆との丁稚奉公についてのやりとりの中で、次のように描いている。

「働くだけやない」

「ほう、他になにするんや」

「・・・・・・・勉強する」

「勉強?よい言うわ。半人前も働けんくせして、勉強などするひまあるもんか」

「でも、おらぁ勉強する。」

「気張る男」 城山三郎著/文藝春秋 より引用。

重太郎少年はその後、商人になり、企業家になり、関西財界の重鎮として企業間トラブルの仲裁・調停役になっていく。

たしかに働くだけではなかった。勉強したのである。どんな風に、なにを学んでいったのか、物語の注目点でもある。

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重太郎少年が大切にしていた、間人の砂のお守り、再現してみようと思い、間人の後ヶ浜に行ってみた。

砂浜になかなか貝とわかるようなもの見つからない。さんざん探しまくって稚貝の殻2個、カケラ2片だけであった。

重太郎少年の時代と海は変わってしまったのでしょうか。

それでも、稚貝の殻の希少性と重太郎少年のその後の成功をかけあわせれば、

間人の砂の御守りは今の時代最強のパワーを持っているのか知れません。

砂浜には、むしろ流木の小さな木片や流れついたプラスチックの小さなカケラがなどのほうが目に付く。

重太郎少年が今の時代の浜を見たなら、この浜の砂のお守りは、ここを出ていく人のお守りではなく、ここに移り住んだ人、一時的に住んでいる人、または観光にきた人など、とにかくこの地に流れてくる人のお守りではないかと、思うのかもしれません。(友木)

松本重太郎ギャラリー 京丹後市丹後町間人にオープン!

https://www.city.kyotango.lg.jp/material/files/group/1/20210927_jjj001.pdf

今年の夏大阪で開かれた、松本重太郎展の様子もご一覧ください。

特別展示「大阪から日本の産業革命を切り拓いた起業家 松本重太郎展」|大阪商工会議所セミナー・イベント
大阪商工会議所のセミナー・イベント等を掲載しています。

https://www.osaka.cci.or.jp

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